「私」の根拠を開示する ディスタンクシオン ブルデュー 岸政彦 12

内容ではなく形式を受容する

ブルデューは、美的性向とは端的に言って、内容や実用性と切り離して純粋に形式だけを受容する能力のことだと言っています。内容ではなく形式。絵画で言えば、描かれているテーマや対象ではなく、その「描き方」、つまりそれぞれの作品が持つ、描線や色彩のスタイル、技法、流派、「見せ方」を鑑賞し評価するための知識や態度のことです。

それらのスタイルや技法を十分に感受し価値づけするためには、美術界においてそのスタイルや技法がどのようなポジションにあり、ほかのスタイルや技法とどのような関係にあり、誰と連携して誰と闘っているのかについて、十分に詳しくなる必要があります。そもそも、あるひとつの作品を見たときに、そこで「何が描かれているか」ではなく、それが「どう描かれているか」という視点で見ることができるということ自体、長年にわたる家庭と学校での教育を必要とするのです。p69

マクリーンの森 12

わたしが見張りとして暮らしていたあの山は、この分水嶺から眺めると、ブロンズの彫刻のように思われる。ただある色をもった「もの」になっているのだ。そこには人間にともなういっさいの生活臭が消えてなくなっていた。そう、まったくなくなっている。ただ一つのある色彩、一つのある形をもった「もの」となり、あとはただ空があるだけ。たとえて言えば、一人のインディアンの美女が永遠の眠りにつくまえに、かならずしも自分のいちばん美しい部分とはいえない部分を、人目にさらしたまま、残していったような感じだった。もしそうだとすれば、わたしたちがこの世界に残してゆくものは、たぶん見方によっては、多くの場合、”不思議の国”なのであり、それまでの現実の世界とは異なっており、概して、より美しいものとなっているのではないだろうか。p99

・・おおお

おやじは、いかなる問題にかんしても、またいかなる時であろうと、わたしに教訓をたれる権利を保有していて、たとえ、その問題についてまったく知識がない場合ですら、そう思っているようだった。いま、トランプ・ゲームについて説教している場合ですら、そう思っているようだった。いま、トランプ・ゲームについて説教しているのは、まぎれもなくおやじの声だったが、その声が言わんとしていたことは、手短に言うと、トランプのカードの扱いにとび抜けた才能をもった人間が、彼のうちにあるごく些細な(そのようにおやじは表現していた)欠陥ゆえに、結局は、人並みのプレーヤーのさえなれなくなるということが、時どきあるが、それだからといって、わたしたちはそれを喜んだりしてはいけない、というのであった。おやじは、トランプ・ゲームの知識はまったくもっていなかったが、このとき、彼の言った言葉は、トランプのゲームと、料理人のこともなに一つ知っていなかったということをも含めて、いかにもおやじの言いそうなことであった。p203

・・なんか笑ってしまう